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肢体不自由な若い障害者が語る「ありがとう」の意味

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肢体不自由 身体障害

ライターで新米の身体障害者の「エリー」です。

「だいちゃん.com」というブログで2月16日に『肢体不自由な身体障害者は「ありがとうのデフレ」が起きやすい』という記事が書かれ、その中に私は登場しました。

まず初めに、謝りたいと思います。

「ありがとうのデフレ」は私の思い違いでした

私は、肢体不自由になったことを「恥ずかしい」と思っていました。誰かに「手を借りる」「助けてもらう」を恥と感じ、「頼まずに日々を暮らす」ことが困難となった現在を悔やんでいました。
日々何かを頼み、それを毎回感謝しなくてはいけなくなった、本来自由なはずの「感謝すること・ありがとうと伝えること」を強制されているような錯覚に陥っていました。
ある日だいちゃんに「肢体不自由は特に「ありがとうのデフレ」が起こりやすいと思う」とこぼしました。

そのあと肢体不自由の大先輩に「お説教」していただいて、私は生まれ変わることができました。

なお、現在は「ありがとうのデフレ」を感じていません。「ありがとう」と言うことで自分の中に「ありがとうポイント:感謝できた点数」が貯められていくことに気づきました。このポイントはいわゆる「自己満足」ですが、積みあげられるうちに「感謝する大切さ」を実感しました。お礼を言われて嬉しくない人はいません。私は、今では積極的にありがとうと感謝しています。
皆さんも、「小さなありがとう」を探してみてはいかがでしょうか。周りに感謝することで、自分も周囲も明るく花開きます。このように「自分のために誰かに感謝してみる」ことを、Twitterの「ひらめきメモ(@shh7)」さんは「戦略的感謝」と呼び、推奨しています。

「お説教」の理由

「障害程度区分」というものをご存知でしょうか。区分が1~6まであって、数が大きいほど「1人でやるには難しい」家事援助や移動支援など福祉サービスを多く受けられます。私は区分4です。

ある日「私は何にもできない、Aさん(区分6の方)が羨ましい」と嘆いたら、傷ついたような表情をされました。私には、その方が「何も言わなくても」周りが助けてくれている、そう見えていました。

次にお会いしたとき、人払いまでして2人きりで、面と向かって叱り飛ばされました。

「私は『あれとこれが苦手だから手伝ってほしい』と伝えている。職員の誰も『私に同情して』手を貸してくれるわけではない。」

その言葉で、自分の愚かさに気づきました。私は、

「できないと言ったら馬鹿にされる」

と思い、誰にも何も伝えようとしませんでした。職員さんが手伝わないのは当たり前です。「手伝ってほしい」と言わないのだから。誰だって「できる」と思うでしょう。

障がいを持ってよかったこと

「第1回目のお説教」は「障がいを持ってよかったことを10個以上あげる」というものでした。肢体不自由になったことを引け目にしか感じていなかった私は、『よかったこと』を考えつくまでに多くの時間を費やしました。懸命に探す中で私は「障がいを持っている今の自分」を受け入れられるようになり、最終的には30項目をあげることができました。

どうしようもない事実として、身体障害の方は、「視力が足りない」「腎臓が働きにくい」「下半身の筋力が不十分」というように「身体のパーツ」が足りないことがあります。そして、それをカバーする分「体力の消耗が激しい」疲れやすいことでしょう。

肢体不自由に限っていうと、「どうしてもできないこと」が多いです。「歩く」こともそのひとつで、「何一つ支えを使わずに歩く」ことができる肢体不自由者は、そう多くいないでしょう。

裏を返せば、介助者や手すり、車椅子など「一つ以上の力を借りる」ということ。その過程で「心のやりとり」が生まれます。「手すりや車椅子にも心がある」と考える私は少数派に属していると思いますが、人にはもちろん心があります。私の少ない経験でいうと、「頼む前に手を貸してくれた」友人はいても「お願いしてなお手を貸してくれなかった」人は一人もいません。「ありがとう」など感謝を伝える必要はありますが、それさえすれば動いてくれます。

肢体不自由者に「甘えるな、そのくらい自分でできる!」と言う人は、おそらく絶滅したでしょう。

「必要だから」補助具を使ったり人に頼んだりするのです。私は「周りに迷惑をかけてしまうので」外出時に車椅子を使いますが、エレベーターの場所を訊ねても「エレベーターに頼らず階段で行け」と言う人に会ったことがありません。

肢体不自由な障害者である私の意見

これは「私の意見」です。

肢体不自由はほかの障害よりも気づかれやすいため、「気をつかってもらいやすい」というメリットがあります。嬉しいのですが、ときどき「それはなにか違うのではないか?」と思うこともあるので、この機会に言わせてください。

私は、これを「肢体不自由者みんなが共通して思うこと」だとは思っていません。違う考えの方だってもちろんいらっしゃるでしょう。

エレベーターを降りるとき、部屋の中に入るときなど。肢体不自由者は「お先にどうぞ」と譲られることが多いです。

先を譲ることは、本当に「相手を思いやった行動」なのでしょうか。

私は「方向転換したいから先に降りてほしい」と思い、扉が開く前に「お先にどうぞ」と言っては先に降りてもらう一人です。車椅子が必要な方も杖が必要な方も、方向転換にはそれなりの空間を必要とします。一番に降りる特権は求めていないので、あなたがいるその空間をください。


たとえ方向転換は済んでいるときに譲っていただいても、すぐに一歩を踏み出せる方は少ないです。「下手に動いてぶつかってしまったら迷惑がかかってしまう」と不安に思い、慎重に動こうと時間をかける方もいらっしゃるでしょう。

私が「お先にどうぞ」と声をかけても、譲り返されることがあります。何故でしょうか。譲ることを生き甲斐にしているのでしょうか?

頼むから先に降りてください。エレベーターが止まる前に声をかけるのは「断られることを想定しているから」ではなく、私がすぐに降りたいからです。「方向転換をしたいから」という言葉が嘘だと気づかれないよう、私は躊躇なくまっすぐに乗り込みます。

誰にも気兼ねすることなく、悠々と方向転換する自由を奪わないでください。

どうしても譲りたいのなら、エレベーターが止まる前に声をかけてほしいです。少しですが体の、そして心の準備ができます。また、「乗り込む順番を譲っていただけることが多い」という、嬉しい特典があります。そのときはぜひ、方向転換が終わるのを確認するか、途中ならその分のスペースをつぶさないように乗り込んでほしいです。

エレベーターには、鏡がついていることがあります。あの鏡は「車椅子を使う方が1人で降りる際に、方向転換を必要とせず安全に降りる」ためのものです。動いている最中は前に立つのも身だしなみを整えるのも構いませんが、「車椅子を使う方が1人で降りる」際は、見えやすいように少し寄ってください。

仲間と一緒にいたときに「エレベーターの鏡は車椅子を使う人のためだ」と説明したら、少し驚いていました。その次に仲間と乗ったエレベーターは、鏡の位置が高く私には使えませんでした。仕方がないので仲間の一人に引いてもらいました。

建物を建築する際に、少しくらい考えてはもらえないのでしょうか。「設置はした」のだから、いくら不便でも感謝しなくてはならないのでしょうか。
設計・建築のときに障害者もメンバーに加えるようにしたら、こういうミスは減るはずです。障害者雇用の面から見てもいい考えだと思うのですが、どなたか私を雇っていただけませんか(笑)

障害者を表すといえば、「青地に白の車椅子マーク」ですよね。あのマークは電車などでもよく見かけます。私はあの、「広くとってある駐車スペース」に、「停める許可証」を持っていない人に停めてほしくありません。

『正当な理由がある「障害者が運転(もしくは同乗)している」「出産間近の妊婦」「脚を骨折している」などの人がそこに停める』のは、理解できます。ですが、たとえ「正当な理由」があったとしても、ステッカーや許可証を提示していないと、そこに停めてある車は「健常者が楽をしたいがために近くに停めた」のと見分けがつきません。

「目に見える」肢体不自由者や妊婦さんなどなら、乗り降りの際などは「見ればわかる」と思います。それでも、ステッカーがないと不審です。「見えない障害」の方は「見てわからない」のだから、きちんと「自分の身は自分で守る」ことが大切なのだと考えます。
ステッカーや許可証を、見えるところに貼ってください。

障害を、どうしますか?

これは、『中途の肢体不自由』である私が4年以上考えたことです。

「障害を受け入れろ」と、良く言われますね。それをうけて、こう言い返してやりましょう。
「えらそうに説教するお前は、もし自分が障害を持つことになっても、一秒もかからず受け入れられるはずだな?楽しみにしてるよ」

肢体不自由になって4年以上経ちますが、私は今でも悔やんでいます。私はだれにも「悔やむな、受け入れろ」と言いません。言えません。

好きなだけ後悔したらいいと思います。時間は戻りませんが、後悔することも大切です。

よく言われる「障害を受け入れろ」論ですが、私は「別に受け入れる必要はない」と思っています。

「受け入れる」というのは、流しそうめんでいう「最後のざる」で、「ありのままを認める」必要があります。

流しそうめんは、「流れているそうめんをすくう」ことに楽しみがあるのだと思います。見送ることもあるでしょう。このように「見送る」こと、つまり「受け流す」ことも大切だと思います。 「できなくなったこと」をすべて認めることなど、不可能とはいわないまでも難しいでしょう。

「できませんけどなにか?」と開き直りましょう。自分でできるなら人に声なんてかけません!

「こんな若いのに、かわいそう」それを毎回聞かされるほうがよっぽど苦痛です。「同情されてあげなければならない」気持ちがわかりますか? 私はたいてい俯きます。車椅子でいると、俯けば表情を見られることがないからです。

「障害」は悪いことなのでしょうか? 私は、そうは思いません。「歩けない」からなんだっていうんですか。

「立ち直る」ことは、いらないと感じます。「立ち直る」は「悪い状態になったものごとが、もとのよい状態になる」という意味です。

「悪い状態」になることは否定できませんが、「もとのよい状態になる」ことができる人はそこまで多くはいないでしょう。

私は、「立ち直る」よりも「立ち上がる」という表現にするべきだと思います。「障害者になる」ことは、悪いことだけではないです。楽しいですよ。

少なくとも私は、何不自由なく歩いていた頃より、車椅子を使うようになってからのほうが「自分が好き」です。

皆さんにお伝えしたいことを文字にできたかと思います。またしゃしゃりでてくることがあるかもしれませんが、そのときはどうぞよろしくお願いします。

(執筆 エリー)

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身体障害1級(肢体不自由+体幹)
現役の女子大生は手が空いたときしか働きません(お勉強が大変なの)
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