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何故、性別移行を望むのか――性同一性障害の主訴「性別違和」について

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性同一性障害

「性同一性障害」という言葉を、聞いたことはおありでしょうか。「せいどういつせいしょうがい」と読みます。ご存じない方もまだまだおられるのでしょうが、この言葉は1996年に一躍多くの人が知るところとなりました。

日本国内では、埼玉医科大学がはじめて「性同一性障害者に対する外科手術は医学的治療である」と倫理委員会の答申を記者会見で発表しました。これが1996年のことです。新聞や週刊誌やテレビがこのことをセンセーショナルに報道しました。これにより性同一性障害という言葉が国内に広まり、テレビでは特集番組が放送されたこともありました。

それから約20年が経ち、しかしまだまだ性同一性障害はさほど知られてもいないし理解されてもいません。今回を初回として、性同一性障害についてみなさんにお判り頂けるように、少しずつ、お話していきたいと思います。

そもそも「性同一性障害」って何だ?

生物学的性と性自認が一致していない状態、これを「性別違和がある」と言うのですが、性別違和がある状態が継続的にある状態を「性同一性障害」と言います。英語ではGender Identity Disorder、これを略してGID(ジーアイディ)と呼ぶこともあります。この言葉を日本語に直訳したものが「性同一性障害」です。

生物学的性は「身体的性別」とも言われます。身体の性別です。ごく簡単に言うと、肉体に男性型の生殖器が備わっているか、女性型の生殖器が備わっているかで判断される性です。無論、男性型の生殖器が備わっている状態が男性であり、女性型の生殖器が備わっている状態が女性です。

男性型・女性型の生殖器についてはそれぞれ医療サイトなどに説明を譲ります。

性自認は「性の自己意識」だとか「性の自己認識」だとか呼ばれることもあります。もっと別の言い方をすると「性同一性」、Gender Identityです。咀嚼して言うと「自分が認識している自分自身の性別」です。自分を男性だと思っているか、女性だと思っているか、それともそのほかの性別だと思っているか、ということです。「思っている」というのは、「男性なんじゃないかな」程度の曖昧なものではなく、確信しているということです。

男性と女性以外に、男性と女性のちょうど中間であるとか、性別がない状態、無性であるとか、男性でもあり女性でもあるとか、そのように自分を認識している人もいます。

これを「心の性」と呼ぶ人もいますが、「心」というものの存在は曖昧で、あまりよろしい表現ではないと筆者は考えています。

つまり、身体の性別と自分が認識している性別とが同じではない、一致していない、食い違っている状態が、一時的ではなくずっと続いている状態を「性同一性障害」と言うのです。

性同一性障害であるかどうかの判断は、専門の医師が幾つかの検査の結果をもとに、日本精神神経学会が定めた「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン」に則って行います。検査の結果と専門医の判断によって診断された場合、その人は「性同一性障害である」と言います。

「性同一性障害」というのは疾病名です。診断を受けていない人には使わない言葉なのです。

では専門医に受診していない、或るいは受診してはいるがまだ診断が下りていない人で、かつ性別違和がある人はどのように呼ばれ得るのでしょう。

その大部分はトランスジェンダーと呼ばれます。勿論、身体の性と自認の性が不一致の人すべてが例外なくトランスジェンダーであるという訳ではありませんが、だいたいの人はそこに分類されます。

トランスジェンダー(Transgender)の頭文字Tは、ここ3年ほどの間に一気に広まった「LGBT」という言葉のおしまいの文字Tです。「LGBT」のTはTransgenderのTなのです。

みなさんは「性別違和がある」状態がどのようなものであるか、想像することはできますか?

性別違和とはどのような状態か

性別違和がある、即ち「身体の性別と自分が認識している性別とが同じではない状態」をよく判っていない人は、「男だけど自分のことを女だと思っている」とか「女なのに自分の性別を男と思い込んでいる」という風な言い方をします。トランスジェンダーや性同一性障害の当事者から見ますと、この見方、言い方は間違っています。
筆者は誕生時に女児と判定されて女性として育てられましたが、2歳でものごころついたときから一貫して「自分は男性である」と認識していました。「男性であるのに身体が女性のかたちをしていた」のです。

現在は専門医によって診断が下される性同一性障害ですが、日本でも採用されている国連WHOによる医療の診断基準ICDの最新版ICD-11では「性同一性障害」という言葉自体がなくなり、また疾病のリストから除外されています。つまり病気ではなくなったのです。

呼称はGender Identity DisorderからGender Incongruenceとなり(日本語では「性別不調和」と呼称される可能性が濃厚)、「病気ではないが、医療行為が必要である」という位置づけになります。妊婦などと同じ扱いになるのです。

ICD-11は邦訳され次第、日本でも適用されるでしょうから、近い将来「性同一性障害」という日本語は使用されなくなる予定です。

また海外では数年前から盛んだった「性同一性障害は病気ではない」とする「脱病理化」の動きが日本国内でも活発化しつつあります。

しかしながら、これは筆者個人の考えに過ぎないのですが、性同一性障害とは身体の奇形でありましょう。

筆者の場合ですと、筆者は自我確立以降ずっと自分は男性であるという意識を持っておりますので身体は本来男性のかたちをしているべきところ、まったくの女性のかたちをして生まれてきた訳です。本来あるべきかたちをしていないのですから、奇形と言えましょう。

ただ、女性としてまったきかたちをして正常に機能していたために、障碍と捉えられることがなかった。そして世の中は何故か身体の性を基準として性差を判断している。それがために筆者は誕生時に女児と判定され、生まれてから30年弱を女性として生きることを強要されてきたのです。

異なる性として扱われるということ

異なる性として扱われるとは、筆者の場合ですと男性と自認しているのに女性として扱われるということですが、これはいったいどういうことなのか。みなさんにも擬似的に体験して頂けるよう仮のお話をしましょう。


性同一性障害やトランスジェンダーの当事者の立場心情を非当事者に推量させるに当たり、「或る朝、目覚めたら身体のかたちが異なる性のものに変わっていたら」という喩えを提示する人が多いようです。しかし、性別違和を感じたことがない人にこの仮定は些かファンタジックに過ぎるようで、「そんなことがあったらうれしい」などと返答を貰う場合も少なくないと聞きます。

性別違和がある状態は、決してうれしくも愉しくもない状態です。もう少しファンタジーの成分が少ない喩えを考えてみましょう。

「田中一郎」という人がいたとします。

みなさんの中にはご自身が田中一郎さんであるという方もおられるかもしれませんが、その場合は「鈴木次郎」を想定してください。

その田中一郎なり鈴木次郎なりは(以下、田中一郎で統一しますが、田中一郎さんは鈴木次郎と読み換えてください)、みなさんが知らない人です。名前は男性名ですが、男性なのか女性なのか或るいはそのほかの性なのか、判りません。みなさんは田中一郎のことを何も知りません。

それにもかかわらず、或る日を境いにご自身以外の人が誰一人例外なく、みなさんを田中一郎と呼ぶようになったら、みなさんはどうしますか。

家族も、友人たちも、学校の同級生や職場の同僚、通っている病院の医師や看護師、行きつけの店の店員、ご近所に住む人、とにかくみなさんと交流のある人ない人、誰も彼もがみなさんを田中一郎と呼びます。その日だけではありません。毎日毎日、おそらく未来永劫です。

役所へ行けば戸籍や住民票にも田中一郎と書いてあります。運転免許証は身分証明に使える公的書類として大変便利ですが、みなさんの顔写真がありながら名前の部分は田中一郎になってしまっています。これでは田中一郎としてしか身分を証明できません。

誰も彼もがみなさんを田中一郎と呼び、みなさん自身ではなく田中一郎として扱います。誰かに「田中一郎」と呼ばれたら、みなさんは返事をしますか? 「田中一郎じゃない」と異議を申し立てても「またまた冗談を」などと笑われたり、「ふざけないでください」と怒られたりします。ご自身のもともとの名前を示して、以前はこの名で呼んでくれていたじゃないかと訴えても、誰も取り合ってくれません。

何故こんなことになっているのか、判りません。しかし確かに世の中の人すべてがみなさんのことを田中一郎と認識してそのように扱います。ご自身ではないはずの田中一郎として。

周囲の誰もが言うように、ご自身が田中一郎であると自認するなら、おそらくその後一切の支障なく生活していけるでしょう。むしろ、そうしないと不都合だらけで生きづらくさえあります。

考えてみてください。

もしもこんな状況になったらみなさんは、誰だかまったく判らない田中一郎として、その後を生きていくことができるでしょうか。

みんなが田中一郎と呼ぶのなら、と、これまで生きてきた記憶や人格をすべて捨て去って田中一郎になれるでしょうか。

Identity――自分自身であるということ

自分とはまったく異なるもの、即ち自分ではないものとして扱われるということは、こういうことです。この設定も幾分ファンタジックではありますが、書類の操作だけで実現し得ることですから、「目覚めたら性が変わっていた」よりは現実味があるはずです。

田中一郎になればいいじゃないか、簡単なことだ。そのように思われた方はおられるでしょうか。

そう思われた方は実際に田中一郎として一週間、生活してみてください。ご自身のいつもの呼び名で呼ばれたら「違います、田中一郎です」と訂正しながら。なかなか面倒で、うっとうしくて、ときには気恥ずかしい思いをするかもしれない、自分ではないものを自分として名乗る倒錯した生活です。たとえ一週間やり通したとしても、終える頃には田中一郎として生きることがきっと厭になっているはずです。

自認している性別とは異なる性として扱われるということは、これととてもよく似ています。異性として扱われるということは、自分が自分ではないものとして扱われるということです。それはアイデンティティ、即ち自己同一性の確立を阻害された状態――自分が自分ではいられないという、とても不安で不安定な状態です。

性別違和があるということ、自認の性で扱われないということは、いつも不安で不安定で、高いところに架かった一本橋の上で常に片足立ちしているようなものなのです。それなのに、周囲の人はおもしろがってときどき背中を押したりすることがあります。

性別違和を抱える者はそのたびに一本橋から落ちないようにもがくのです。それでも落ちてしまう人、もがくことに疲れて自ら落ちる人がいます。

この不安や不安定さは、不当なものです。性別違和がない状態であれば、身体の性と自認する性が一致していれば、無縁のはずのものです。それが生得的なものであるのが、トランスジェンダーであり性同一性障害の当事者なのです。

不当な不安や不安定さを返上するためには、身体の性と自認する性を一致させる、性別違和を解消する必要があります。その手段が、性同一性障害の当事者にとっては自認の性の服装であり、性ホルモン剤の摂取であり、性別適合手術であるのです。

個々人によって必要な性別移行の段階は異なります。服装での性表現を自認の性に合わせるだけで不安が解消される人もいれば、外性器の形成手術まで行ってもすべては解消し得ない人もいます。しかし、何れにしても身体の性及び社会的性(性表現・性役割など)を自認の性に可能な限り近づけるということが必要なのです。

自認の性として生きるために。自分自身として生きるために。

性同一性障害の当事者が性別移行を望む理由が、お判り頂けたでしょうか。

(執筆 衛澤創(えざわそう))

※参考
性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン(日本精神神経学会)

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衛澤創(えざわそう) by
精神障碍者で虐待サバイバーで性同一性障碍でゲイというクワドラブルマイノリティ。
うつ病・パニック障碍・睡眠障碍・摂食障碍・社会不安障害を併発して精神障碍者3級。
ものごころついた頃から27歳で実家を出るまでほぼ日常的に実父の暴力に晒され、実家を出てからは15年かかって性別適合手術をすべて済ませた。
中5年はうつ病が重篤な状態になり、つごうまる1年と少しの入院を含む何もできなかった期間。もう大変。
現在は病状も落ち着き、ライター兼作家として地味に活動中。
主な仕事:
ホンシェルジュ「衛澤創の本棚」
DIVERSITY STUDIES「SOU!ルーム~衛澤さんのちょっとええやん~」
オフィス・エス(個人サイト)