本日は制度という面で仕事として介護にかかわり、車いすの当事者として介護を受ける私が、感じる「こんな介護は嫌だ」というエピソードを紹介していきたいと思います。
単純に考えれば自分で食事、排せつ、外出などが障害のせいでできないという部分を補ってもらう・助けてもらうための介護です。持てないスプーンを口まで運んでもらう。便器に移ってズボンを脱がせてもらう。段差がある外出先のお店に車いすを持ち上げて入れてもらう。たしかにこれらも立派な「介護」です。しかし、介助者が障害を持った利用者さんに対して何のために介護をするのかというポイントで介護の「質」が変わってきます。
このように考えたことはありませんか?
しかし、果たしてそれだけでいいでしょうか?
できないことは障害、健常者関係なくあります。そこを仕事としてするのが介護のプロです。ボランティアではありません。介護の先にその利用者さんの人生がどう変化するのかというポイントを見落としていないでしょうか?
例えば、入浴を考えてみます。お風呂に入りたいときにお風呂に入るというのが通常の認識だと思います。
デートの前はしっかり髪の毛を洗っていい匂いにしたい。バーベキューがあった日には体についた炭の匂いを落としたい。仕事で疲れた日にはあったかいお湯でリラックスしたい。そのために介護があるのではないのでしょうか。いわゆる在宅生活、自立生活のかなめとなるところだと考えます。
「何時にお風呂に入る」という当初の計画どおりの介護しかしない介助者の役割は何でしょうか? 人として必要最低限の生活をするための介護でよいのでしょうか?
よく介助者に言われることがあります。
「私は料理人じゃない」
「ヘアメイクアーティストではない」
「うるさい場所、ライブ会場は嫌いだ」
たしかに、すべて正論です。けれど、自分で料理を作れない、髪の毛のおしゃれも楽しめない、介護がなければライブに行くことも難しい。それが現実です。そして生活ってそういうことではないでしょうか?
確かに料理人ではないし、ヘアメイクアーティストでもないし、趣味趣向は違います。けれど利用者の生活が充実するように努力することはできます。
「一緒に料理雑誌やサイトを見てみる」
「美容室に実際に一緒に行ってみる」そんな少しの工夫で介護の質は変わるし、利用者さんの介護の先の生活は断然に変わります。もちろん私も10年以上ヘルパー制度を利用してきて何人もの介助者の方と関わってきました。介護の先にある生活を見据えたケアをしてくれる方はそうそういませんし、わかっていても仕事としてやりたくないという方もいました。こういった課題を解決するキーパーソンは介護専門学校の先生や、政治家でもありません。いかに自分らしく生きているかを発信する障害当事者ではないでしょうか?
(執筆 しょうのすけ)