私は3歳の時に聴覚障害が見つかりました。物心ついた時にはもう聴覚障害者だったということです。けれど、視覚障害が見つかったのは比較的遅く、13歳の時でした。
あれは、忘れもしない5年前の夏のことでした。私は学校の眼科検診で「絶対に目に問題があるから眼科を受診してください」と校医に強く言われ、地元にある個人で経営している病院を受診しました。何時間にも及ぶ精密検査の結果、「恐らく目に重大な問題を抱えている。この個人で経営している病院ではこれ以上詳しいことは分からないから総合病院を受診するように」と言われました。その時点で私には何となく結論が見えていました。「多分自分は視覚障害者なんだろうな」というものです。
そうして、1週間後に学校を休んで総合病院に行きました。そこでもまた何時間にも及ぶ精密検査を受けました。とても眩しい光を当てられたり、眼球に電極をつけられたりしました。プラネタリウムのような装置で視野検査を受けました。全てが終わる頃にはヘトヘトに疲れていました。真っ暗な診察室に入り、医師の説明を聞きました。けれど私はあまりにもヘトヘトだったこと、目がチカチカしていたことで医師の説明が分かりませんでした。明るい場所ならば例え耳が聞こえにくくても口の形を読むことで、内容を把握できたかもしれません。
病院の帰り道、父は終始不機嫌でした。私は父に「結局医師は何を言っていたのか?」と聞きましたが、しっかりとした答えはもらえませんでした。
それから数ヶ月経った秋の夜のことです。私の家に私宛の郵便物が届きました。封を開けると、「難病指定」「網膜色素変性症」との文字がありました。……そうです。私は「網膜色素変性症」だったのです。
【網膜色素変性
網膜色素変性とは 網膜色素変性は、眼の中で光を感じる組織である網膜(図1)に異常がみられる遺伝性の病気で、日本では人口10万人に対し18.7人の患者がいると推定されています。夜盲(やもう)、視野狭窄、視力低下が特徴的な症状です】
出典 日本眼科学会
父はずっと私に対して、私が網膜色素変性症であるということを隠していたようです。ただでさえ聴覚障害があり、聴こえにくいのに、更に視覚障害があることを知ったらショックを受けるとでも思ったのでしょうか。
それから私はかなりショックを受け、元々酷かったうつ状態が更に悪化しました。何度も自殺を考えました。「いつか光を失うかもしれない」そのことしか考えられませんでした。現時点では治療法が確立されていません。全員が光を失うわけではないらしいことも分かっていましたが、だからといって光を失う確率がゼロというわけではありませんでした。
それから5年の月日が流れました。私は今、遮光眼鏡をかけて白杖を使い、生活しています。まだ自分が視覚障害者であるということは受け入れられていません。けれど、5年前に比べればとても前向きになれていると思います。視覚障害があるのならば、あるなりにどうやって生きていけば良いのかを日々考えて実行しています。
受け入れるというのはとても労力のいることですが、受け入れられずにもがく自分さえも肯定して生きたいと思います。
(執筆 秋澤優(アキワサヒロ))